まこちゃんについて

まこちゃんのプロフィール

まこちゃん

2002年
12月 誕生
2011年(小学3年生)
お母さんの病気が判明
2015年(中学1年生)
5月 まこちゃんの病気が判明
8月 24時間点滴開始
2016年(中学2年生)
3月 ICUに入院
2017年(中学3年生)
5月 車椅子で修学旅行
6月 24時間酸素吸入開始
2018年(高校1年生)
4月 車椅子で入学式
春先以降、ほとんどの期間を入院して過ごす

まこちゃんからのメッセージ

今回、海外での移植を決め、こうして会見に至るまでに自分の中でたくさんの葛藤がありました。

今私は、息切れや動悸が酷くポータブルトイレに行くのがやっとで、学校に行くことが出来ません。一日のほとんどをベッドで過ごす状態です。

だから、主治医の先生に海外移植を進められたときやりたいと言いました。

しかし、時間が経つにつれて本当にこれでいいのか考えるようになりました。海外で移植をするにはたくさんの費用やたくさんの人の協力が必要です。私の我儘で迷惑をかけていいのか、皆さんの善意に報いることができるのかとても悩みました。

その事を主治医の先生に話すと、泣きながら「病気が見つかってから我慢しなきゃいけない事が多く、辛かったと思うから元気になって普通の高校生活を送ってほしい」と言って下さいました。また、母の友人は「どんな選択をしても応援するよ」と言って下さいました。他にもたくさんの方達から応援の言葉をいただきました。

それを聞き、これだけ応援してくれる人がいるなら、元気になって普通の生活を送ることを望んでもいいのかなと思えました。

海外移植が成功したらみんなと同じように学校に通いたい、走り回りたい、自転車に乗って色んな所に行きたい、大学に進学したい、文化祭や体育祭でみんなとはしゃぎたい、料理をたくさんしたい、美味しい物を食べたい、競技かるたをやりたい、スポーツをしたい、やりたい事がたくさんあります。

将来の夢もあります。アニメを作る仕事がしたいです。私自身、病気が見つかってから辛いことがたくさんありました。そんなとき出会ったのが、アニメでした。アニメを見ていると、辛いことを忘れられました。頑張れと背中を押してくれているような気さえしました。病気が見つかって思うように動くことができず悩み苦しかった時もそんなに考え込まず気楽にいこうと思わせてくれました。

一度今の境遇から目をそらすことで見えてくる物もたくさんあります。辛い辛いと思っていては、見つからない打開策だってあります。心が暗く沈んでしまったら、何も出来なくなってしまいます。

だから、大好きなアニメで辛い思いと闘っている人達の逃げ場を作りたい、元気をあげたい、希望をあげたいのです。私と同じような人の心を救いたいのです。 我儘かもしれませんが、ご支援ご協力よろしくお願いします。

まこ

両親からのメッセージ

この度は私達の娘のまこが移植を受けられる為に多忙、体調不良、遠方にも関わらず貴重な時間を割いて『まこちゃんを救う会』を発足してくださった皆さま、また早期からご支援ご協力くださっている皆さまに心より感謝申し上げます。

まこは2002年12月に誕生しました。

まこが小学校3年生の時に母である私が特発性肺動脈性肺高血圧症と言う難病であることがわかりました。

その後、遺伝性の病気であることもわかったのですがまこが20歳になるまでは遺伝子検査ができないと言うことで学校の先生にも 体育の時間などで顔色が青ざめたり 息切れがひどかったりしたら教えて欲しいとお願いしたこともありました。進級するたびに内科健診の問診票に母が特発性肺動脈性肺高血圧症であることを表記し注意して診てもらえるようにお願いしていました。

中学1年生の5月に受けた心電図検査で初めて再検査通知をもらい保健所に行って再検査を受けました。結果はこのぐらいなら大丈夫でしょうとその場で言われてホッとしました。念のため 「私(母)が遺伝性の特発性肺動脈性肺高血圧症なのですが 娘は大丈夫ですか?」と聞いたらすぐに心エコーで診てくださり「あぁお母さんと同じだぁ」と言われてしまい私は涙が止まりませんでした。大丈夫!って安心したくて聞いただけなのに・・・。その場で直ぐに娘に「(遺伝しちゃってて)ごめんね」と謝りました。娘はすぐに「お母さんのせいじゃないよ、仕方ないよ」と気丈に言葉を返してくれました。

すぐに私の主治医である杏林大学病院の先生に連絡をしてまこは12歳で同病院は専門外でしたが娘も診て頂けることになりました。保健所に行って発症がわかって1週間後には杏林大学病院に入院して沢山の検査を受けました。正式に診断がくだり入院したまま飲み薬による治療をすぐに始めましたがあまり効果がみられなかったので早くフローラン(常時点滴)をした方が良いと言われ8月初旬から24時間点滴を始めました。

その間、中学校の担任の先生、養護の先生が病院まで来て下さり主治医の先生方から病状を直接聞いてくださり2学期から登校できるような体制を考えてくださいました。教室が4階だったので簡易昇降機が設置されるまで1階の保健室登校をしていました。

1年生の修了式後、検査入院をしていたら急に高熱が出て酸素濃度も低下してしまいICUに移動になりました。原因究明のため検査をしたところフローランの副作用による血小板の急激な減少で肺からの出血が原因と判明。出血が治まらない場合は・・・と最悪な診断をされてしまいました。

主治医の先生は関東だけでなく西日本の大学病院の先生方とも意見交換をしてくださり最善の治療法を取り入れてくださいました。

始業式には間に合いませんでしたが奇跡的に退院できその後は身体への負担を掛けずに週1回は採血で血小板とヘモグロビンを地元の中核病院で検査してその結果を佐藤教授にメールで報告して指示を仰ぐようになりました。

中学2年生の時は長期休暇中に検査入院をするぐらいで比較的容体は安定していました。

中学3年生のときには大事をとって車椅子使用で所々別行動でしたが5月の京都への修学旅行に参加できました。副作用が出にくい薬に変えていたのですが6月にはまた血小板が下がってしまいました。そのため薬の量を減らさなければなりませんでした。また退院時には24時間酸素吸入になってしまいました。夏休み明けからは学校内は車椅子移動で出かけることはほとんどできなくなりました。入院することも増えて来ました。

そんな状況の中ネット配信を活用してまこなりに受験勉強を頑張り公立高校に合格できました。

入学式前に入学予定の高校の先生方と何度も打ち合わせの時間を作って頂き、入学式も身体に負担がかからないよう配慮して頂き出席できました。登下校時も教室に一番近い所に車を停めさせて頂き、私が同病で無理が出来ない為、車まで先生方が車椅子で娘の送迎をフォローしてくださいました。

春先は割りと体調も落ち着いているかのように思えたのですが6月上旬に血小板が急激に減少してしまったり心不全が頻繁に起こるようになりここからはほとんど入院している現状です。

2年ほど前から残念ながら移植するしか生きる道はないと告げられ日本で移植が受けられるように登録もしていました。ですが今年6月、8月に受けたカテーテル検査の結果は安静にしているのにどんどん悪くなっていて日本の移植の順番を待っている猶予がないと告げられ家族ですごく迷いました。色々な葛藤がありました。海外で移植を受ける価値が自分たちにあるのだろうか何度も何度も考えました。その結論として少しでも体力があるうちに、成功する可能性の高いうちに移植を受けさせてもらいたい。

まこにもやりたいことやってみたいことがいっぱいあります。夢もあります。

私は同病でも発症が遅く友達と楽しい学生時代を送ることもやりたい仕事にも10年以上勤める事ができました。また結婚もでき家族も増えました。今は病気も少しずつ進んでしまって副作用で辛いですが振り返ると沢山楽しい思い出があります。

でもまこは好きな部活に入って色んな人とお友達になって中学・高校生活を満喫して欲しい時期なのに我慢ばかりの生活の連続です。

まこの発症がわかった時は医療は日進月歩、時期に素晴らしい薬が出てきて完治も夢ではないとプラス思考でいましたが残念ながら移植しか生き延びる手段がなくなってしまいました。

図々しいお願いだと思います。わがままなお願いだと思います。でも私は今後まこが居ない生活なんて想像もできない耐えられないのです。
頑張り屋で我慢強いまこにどうか皆さまの温かいご支援ご協力を賜り未来を与えて頂けないでしょうか。夢を叶えさせて頂けないでしょうか。

まこに海外移植を受けさせてください。誠に勝手なお願いですが宜しくお願い申し上げます。

田村 佐智夫
久視子